清水 潔

  • 株式会社リコー
  • 顧問 中国総合戦略タスクフォースリーダー
  • 清水 潔
  • 1979年 外国語学部 英米語学科 卒業
清水 潔

ESSのプレゼンス向上に貢献

学生時代はESSに所属し、部員全員の英語での議論力向上を目指して他大学ESSとのディスカッションミーティングの機会を数多く設定しました。その甲斐もあり、関西外大ESSのプレゼンス向上に少しは貢献できたと自負しています。

当時、クラブのビジョンである“英語だけでなく、選択したテーマの中身を掘り下げて学ぶ”という精神を一部変え、とにかく“目まぐるしく変わるテーマについて英語で話す機会を出来るだけ多く持つ”というコンセプトに挑戦しました。一時期は、他校との打ち合わせや準備で、後の会社での仕事以上に多忙を極める時期もありました。しかし、今となっては前者の考えの方が正しかったと思っています(先輩達は既に気付いていたようですが…)。

ESSのような大組織(その頃は部員が200人以上いました)で、学生時代からピープルマネージメントを体験できたことや、方向性に関するクリアなメッセージの出し方、トップが強い想いを示すことの重要性、他組織(大学)との協調、交渉などを実践できたことは、大きな力になったと確信しています。

外国語コミュニケーションの醍醐味

関西外大を選んだ理由は、留学を前面に打ち出した大学という点に惹かれたからです。しかし、留学選考試験の結果は、合格者5名の枠から漏れ、補欠。その結果に一時は愕然としましたが、運良く国からの奨学金も下り、オーストラリアへの留学が叶いました。

留学当初は、とにかく英語が聴き取れず、大変苦労しました。そんな中で経済学を専攻しましたが、授業では教授から半分冗談で“Japanese economistの意見を聞こう!” などと良くいじられ、そのために日本の経済も勉強しました。英語の授業で習った三段論法に始まり、興味本位でディベートクラブにも入りましたが、あまりの激しい議論に右も左も分からず、入部からわずか1週間で退部してしまいました。やはり、本場のディベートには、全くついていけなかったですね。

英語は一生懸命勉強してきましたが、留学経験で更に磨きをかけられ、外国語コミュニケーションの醍醐味を味わうことができました。これら学生時代の経験が、今の私の全てのベースになったことは間違いありません。
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2019年10月 豪州パースにて40年ぶりの西オーストラリア工科大学(現カーティン大学)

ラテン事業の第一人者に

外国語(当初は英語)を活用して海外ビジネスに携わりたいという希望が強く、また、若い頃からの夢であった海外での生活を実現したいという思いの強さから、正直、業種・業界の選択にはそれほどの意味はありませんでした。卒業後は大阪で大手アパレルに入社し、海外ブランドとの取引に深く関わる仕事を熱望していました。しかし、その想いとは裏腹に、その会社の国際事業拡大の進展に大きな望みは託せず、5年余りで退社。しかし、その年の夏、海外事業の強化を目指して海外要員の増強を図っていたリコーへの転職が叶い、念願であった海外本部に配属されることになりました。当初は欧米の代理店との貿易業務から商談交渉までを担当しました。

1988年秋、突然スペイン語など出来ない私が、スペイン バルセロナ現地法人への駐在を命じられ、33歳の若輩でありながら副社長という立場でスペイン人社長を補佐するという任務を拝命。スペイン語習得と同時に経営を必死で学びました。当時の代理店オーナーとの合弁契約の解消、組織合理化、92年、バルセロナオリンピックスポンサーとしての任務遂行、その後の成長戦略と、多くを詰め込んだ11年間を送ることが出来ました。

スペインの長期赴任で培った語学と経験を評価されたのか、その後、2003年からは米国マイアミの中南米本社の社長として、広い南米大陸の全子会社を統括するようになりました。ここでは、経済の脆弱性が大きなリスクであり、為替というものをしっかりと学びました。しかし、その頃から興り出した”BRIC“成長の追い風にも助けられ、大きな事業成長を達成することができました。その当時のエピソードですが、現地の言葉が話せると、幹部のみならず、ローカルのセールスやサービスマンとも直接話をすることができます。パナマという国では、朝中華料理屋で飲茶を食べながら朝会をする習慣があり、そこであるサービスマンから聞いた顧客の話を具現化して、新しいビジネスモデルを構築し、政府からの大型商談を取ったのを覚えています。ちょうどこの時期から、ラテン事業の第一人者として認識されるようになってきたかと思います。
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2019年5月スペインバルセロナにて20年ぶりに過去の同僚達と

晴天の霹靂

その後、2008年には米国ニュージャージー州に移り、今度は米国現地法人にて代理店担当副社長として、競合他社との代理店買収合戦に奔走することになります。この時のトップがゼネラル・エレクトリック(GE)出身の米国人であったことから、正に米国流のスピード経営、事業展開に実際に携わることが出来ました。

2011年、青天の霹靂で中国現地法人の董事長(会長)としての駐在を命じられました。特異性のある市場、人間とのコミュニケーションは、今まで経験してきた市場以上に、自分の思いを明確に言葉にしないと全く通じないということを実感しました。ここでも日系企業初の組織合理化を実施したり、その法的論争に明け暮れたという強い印象があります。

海外ビジネスでは、日本や日本人の常識が通じない部分が多々あります。ある時、中国で些細な経費項目の中に、数年で数百%の増加項目があることに気付きました。金額が小さいのではじめは見落としていたのですが、しっかりと部品の横流しが行われていたんです。一回の金額は些細でも、それが何年にも亘ると、その被害は数千万円にも昇りました。小さくても異常値の裏には何らかの誤魔化しが潜んでいると疑ってかからないといけない、と感じた瞬間でした。また、中国は面子を重要視する国です。法務担当が負けた案件を、別のルートを使って大逆転したことがあったのですが、これで面子を失った法務担当の仕返したるや想像を絶する執念で、会社を大混乱に巻き込む結果となりました。

また、ある時、ケニアのある省の次官に言われた話ですが、日本と中国の支援をくらべると、日本は品質の高い支援(水捌けの良い歩道付きの道路を3年かけて作る)をしてくれるが、中国の支援は、質は劣るが大規模でスピード感を持った(何百kmもの5車線高速道路を1年で作る)支援である。アフリカは幸せになるために時間をかけてはいられない。中国はまだ貧乏だった時代を覚えているが、日本は忘れてしまっている。これは、非常に衝撃的な話でした。

厳しい2年半でしたが、その後の中国現地法人の基盤づくりには貢献できたかと思います。
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2018年10月重慶にて 中国代理店会議
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2019年9月深圳にて リコー・ハルピン工業大学共同実験室 同大学 王教授と
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2019年11月上海にて 中国国際輸入博覧会での北京市政府へのメッセージ

中小企業の新興国への海外進出を支援していきたい

日本への帰国後は、それまでの経験を評価して頂き、本社執行役員として世界の新興国事業(中国、インド、中南米、ロシア、アフリカ)の底上げに挑戦してきました。そして、今年(2019年)3月に役員を定年退任して顧問に就任しながらも、中国事業を再強化する意味での戦略推進役を拝命し、中国政府、大学、研究機関、VC、投資家達との新規事業構築に関する協業の可能性を探っています。

リコーという会社で、日本特有の技術(光学・画像解析などの技術)領域に永らく携わってきましたが、日本人としての存在感とアイデンティティを高く維持して働けたことに、とても誇りを感じています。

今後は、今までの経験を生かして、中小企業の新興国への海外進出を支援できるような仕事に就ければと思っています。特に新興国については、若い時からその国にどっぷり浸かれる人間を育成し、その国の方向性やリスクを肌で感じれる人間を育てて行きたいと思っています。
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2019年4月東京にて 今話題の香港特別行政区長官 林鄭月娥氏(Carrie Lam)と

議論力をつける努力を

厳しい話をしますが、海外の仕事を目指すなら、英語は入社時から普通に出来て当然です。我々の時代のように、入社してから学ぶ、駐在してから学ぶ、などという期待は論外です。出来れば英語以外の言葉でもビジネスに少しは活用できるくらいのレベルで持っておいた方が良いでしょう。

しかし、更に残酷なことを言うと、いくつの外国語を話せようが、それも近い将来(あと数年で)完全にAIに取って代わられます。通訳なんて仕事はいの一番になくなるはずです。しかし、議論のプロセス、つまり、思考のぶつけ合いは残ります。従って、これからの人には外国語のスキルではなく、議論力をつけておくことをお勧めします。ディベート力だけではありません。相手を論破するだけではなく、相手に同意することを基本に議論を進めるスキルをも持つことです。そのためにはいろんな情報へのアクセスをしっかりして、文化も理解した上で、相手の意見、考えを正しく聴ける能力をつけることです。チャレンジして下さい!

掲載:2019年12月
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