出野 ひろみ

  • 社会福祉法人三秀會 甍 介護職員
    陸上競技長距離走・マラソン選手
  • 出野 ひろみ
  • 1986年 外国語学部 英米語学科 卒業
出野 ひろみ

競技スキーに打ち込んだ学生時代

  英語漬けの毎日を過ごす予定が、振り返れば競技スキー漬けの4年間になっていました。実力が拮抗しているなら差が出るポイントはマテリアルしかないと思い、クラブの合宿費用捻出に加え、高価な道具を揃えるために、練習の合間もアルバイトに明け暮れる日々。そのような環境でしたから、勉強に力を入れた記憶があまりありません。シーズン中には、スキー部創設者の先輩が経営するロッジに居候させてもらい、年末年始も自宅に帰ることなく、リフトが止まってロッジの仕事が一段落した時間に練習させて頂きました。競技経験のなかった私に、上級スキーヤーの先輩たちが徹底的に指導してくださったおかげで、全関西や関西アルペンの大会で上位に入るまでに成長することができました。

 4回生の後期、卒業がかかったレポート提出を、居候していた長野県から教授の自宅に書留などの手段も取らずに郵送してしまいました。結果、どういうわけかそのレポートは教授の元へは届けられることなく、留年決定になってしまいました。郵便局に一緒に行ってくれたチームメイトが投函の証人になってくれましたが、厳粛な教授の決定は覆ることはありませんでした。困り果てた挙げ句、当時のスキー部監督だった雫石先生に相談に上がり、レポートは期日を守ってきちんと提出したこと、そして、我が家の家庭状況では留年が難しいこと、それらを先生に切に訴えました。その結果、先生にご尽力いただき、無事、留年を免れて卒業することができました。先生は、常日頃から私達部員に余計なことは一切語らず、ただただ暖かく支援してくださる本当に偉大な方でした。勉強にはあまり力を入れなかったと言いましたが、雫石先生のクラスだけは、特別熱心に学んだのを覚えています。残念ながら、先生は既に鬼籍に入られています。改めてご冥福をお祈りいたします。
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天職とも言える英会話講師の仕事から介護職への転身を決意させた上司の言葉

 卒業後はソフトウェア開発会社に勤務し、大手企業の経理システムを開発する仕事に従事しました。当時は男女雇用機会均等法がスタートした頃でしたから、女子社員も月200時間を超える残業が当り前でした。だから、自宅には寝に帰るだけの毎日。このままの生活を続けていると、いつか自分を見失ってしまうかも知れない、と思い、次に選んだのが、幼児から高校生までの英会話教室の講師の仕事でした。そこでの約20年間の勤務期間に、同居していた叔母や父を見送る経験をしたことがきっかけで、高齢者介護の仕事に興味を持つようになりました。講師の仕事は主に午後からの勤務でしたから、午前中の空いた時間を利用し、ほんの腰掛け程度のつもりでホームヘルパーの仕事を始めようと考えたのが始まりでした。数年間はヘルパーと講師の二足の草鞋を履いていましたが、4年前、現在の介護職一本に決めて、自己の体が続く限り働くことを決めました。

 あくまでも本職は講師であり、子供と英語が好きな自分には、まさに天職といえるその仕事を一生続けていくつもりでした。しかし、ある時、ヘルプ事業所の直属の上司から言われた言葉に、私の心は大きく突き動かされることになります。「在宅介護の仕事は、終末期を迎えた人生の先輩からたくさんの事を学べる有難い仕事であると同時に、自分たちがどう働きかけるかでその方の終末期を輝かしいものにできるか否かを左右する責任重大な仕事です。自分は、この仕事に自分自身を生涯ささげたいと思っています。」と。この言葉を聞いた時、私自身も介護の仕事へ身を置くことを決意しました。
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認知症高齢者介護に関してのスペシャリストになりたい

  サービス提供責任者としてのスキルを高めることが、今の第一の目標です。また、登録ヘルパー向け研修や介護職員初任者研修の講師を担当する機会が増えてきていることもあり、その方面のスキルアップも図っていきたいですね。そして、まさに今、認知症高齢者とのコミュニケーションに役立つバリデーション研修を受講中なのですが、今後、益々増加の一途を辿るであろう認知症高齢者介護に関しては、事業所のリーダー的役割を担う人材となりたいと思っています。
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夢を持つことのすばらしさ

 夢を持つ。その夢に向かっていつまでに何をするかを考える。計画を立てる。実行する。反省する。この行動パターンは、学生時代のスキー部での経験で養われました。

 今、自分があたかも仕事のように熱心に取り組んでいることにマラソンがあります。本来、夏場のスキーのトレーニングの一部でしかなかった走るということが、気づいてみると生活の一部のようになってしまっています。始まりはささやかな夢をもったこと。そう、「一生に一度はフルマラソンを走ってみたい」と。

 そして、1987年、篠山で4時間37分でこの夢を達成。これでもうマラソンを走ることは無い、予定だったのに・・・。

 再び、むくむくと走ることへの夢が膨み「大阪国際女子マラソンを走ってみたい」と。そして、2012年、福知山マラソンで3時間13分で出場資格を取得。2013年、大阪国際初出場で3時間8分。 こうなると、もう、なんとなく限界に挑戦してみたくなり、「いつかは100キロマラソンを完走してみたい」と夢は膨らむばかり。2013年、村岡ダブルフルウルトラマラソンで10時間22分。次に、「100キロマラソンでサブ10=10時間を切りたい」と考え、2016年4月の奥熊野韋駄天ウルトラマラソンでは8時間38分(コースレコード)、2016年9月の丹後100キロウルトラマラソンでは8時間31分(優勝の副賞で2017年3月11日の台湾のウルトラマラソンの招待選手に)。「いつかはマラソンでサブ3=3時間を切りたい」という目標には、2016年の大阪マラソンで2時間58分36秒(大阪府在住1位で2017年10月8日のシカゴマラソン招待選手に)。

 あきらめないで頑張ればいつか夢は叶う、ということを学ばせてもらえた4年間だったと思っています。マラソンを通じてたくさんの偉大な人々に出会え、貴重な体験を積むことが出来ました。家族や職場の人たちの賛同も得られる中、自分が健康で好きなことに打ち込めることにも感謝しています。今後も記録更新を目指しながら、走ることでできる恩返しをしていきたいと思っています。

掲載:2017年1月
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