松田 陽子

  • シンガーソングライター
    国連UNHCR協会 協力委員
  • 松田 陽子
  • 1995年
松田 陽子

あこがれの大学は、描いていたイメージ以上に素晴らしい学校でした。

 高校時代、一年間海外留学をしていたんですが、日本に帰って来てからは逆カルチャーショックで、自分がどうしたらいいのか分からない状況になっていました。自分ではそうは思っていないんですが、良いことも悪いこともすごく目立ってしまうんです。だから、何かびくびくしてしまって、自分の居場所さえ分からなくなってしまっていたんです。そんな時、同じような悩みを共有できる親友と呼べる友達に出会いました。お互いに本当に辛い環境だったんですけど、それでも何とか支えあって頑張りました。共に関西外大を目指していましたので、夢のような大学生活を信じて、それだけを頼りに毎日二人で勉強していました。でも、結局、彼女は途中でその夢を見ることが出来なくなってしまいました。その時、私も一度は夢を諦めようと思ったんですが、「絶対に関西外大受かってな」という彼女の最後の言葉を思い出して、二人の想いに挑戦してみて、それで駄目なら諦めようと思いました。

 結果、無事にその想いは届きました。外大への思い入れはすごく強かったんですが、実際に行ってみたら、思っていた以上にすばらしい大学でした。色々な文化や語学が飛び交う、まるで異国の地のような自由な世界がそこにはありました。そのおかげで、人生って辛いことばかりじゃないなって感じることが出来たんです。

目標進路との出会いと挫折の中、歌手という一度は諦めていた道が開けました。

 学生生活は、共に大学に入るはずだった彼女が自分の中にいると信じて、色々な世界を一緒に旅しようって思いました。だから、学生時代だけでも20カ国以上は廻ったと思います。スペインに留学中なんか、リュックサックひとつでヨーロッパの小さな国々を10何カ国廻りましたね。学生時代の友人と、そんな旅を続ける中、ボランティア活動に携わりたい、何か人の役に立ちたい、という想いが芽生え始めました。それで、国連の職員になりたいと思い、卒業前に外務省に問い合わせをしたんですが、結果としてその条件に合わず、新たな道を探すことになりました。なかなか思うようにいかず、どうしたら良いか悩んでいた時、ミュージカルのイベント会社の社長にスカウトされたんです。実は、幼少時代から歌を歌っていて、大手プロダクションに受かった経験もあったんですけど、当時の家庭環境から歌手になる夢を一度は諦めたんです。でも、またその世界から声がかかって、私の二度目の歌手人生が始まったんです。

歌の世界よりも小さな幸せを求めて…。

 イベント会社を辞めて、ひらめきでニューヨークに行ったんですけど、ここでもすごく奇跡的な出会いがありました。たまたま楽器を持った黒人男性に声を掛けられ、歌わしてくれるという言葉を信じてついて行った先がブロードウェイのマリオットホテルでした。彼は、実はそこの音楽プロデューサーで、当時5曲くらいしかレパートリーがなかった私に、毎週歌う機会をくれました。日本とニューヨークを行ったり来たりしながら歌う生活を続けている中で、ある出会いがありました。それから結婚して子どもが出来て・・・。もともと温かい家庭にあこがれていた私は、いつしか歌手を辞めてずっと日本にいたいと思うようになっていました。

 でも、その幸せは長くは続きませんでした。娘が2歳の時に癌が発症したんです。せっかく手に入れた幸せを失いたくなかったですし、娘のためにも生きようって強く思いました。それで再発の可能性も高いって言われてたんですが、手術後も気合で何とか頑張りました。でも、そんな時に一番支えになって欲しかった人とすれ違ってしまって、自分がどんどん壊れていくのが分かりました。気付いたら、魂を抜かれたみたいな状態になってしまっていたんです。
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誰かのために、何かのために生きてみよう。

 寝たきりで起き上がれない状況が続いていたんですが、たまたま体調が少し良くなった時に、何を見に行く訳でもなくふらっと映画館に出掛けたんです。それがアンジェリーナ・ジョリー主演の『すべては愛のために』という映画でした。その時、私は癌という病と闘っていましたし、無職でしたし、それこそもう自分には何もないって思いこんでいましたので、その映画からは雷に打たれたような衝撃を受けました。一生懸命に生きようとする小さな子ども達が、一滴の水さえ飲めずに母親の腕の中で息を引き取ったり、地雷を踏んで手足や命さえも失ってしまっている現状を知って、私には何もないんじゃない、全てあるんだって感じました。蛇口をひねれば水が出るし、屋根のある家にも住めている。寝たきりの状態でも食事を作ってくれる家族がいれば、娘もいる。あ、自分はすごく幸せな状況なのに、なぜ何もないなんて思っていたんだろうって。

 それからは、自分自身のことだけ考えて死んでいくよりも、誰かのために、何かのために自分の命を使って行こう、いつ死んでも悔いのない生き方に変えて行こう、という考え方に変わったんです。でも、その当時は無職でしたから、生きていくためには社会に出なくてはいけませんでした。そこで、自分の過去の経験を振り返ってみたんですが、やっぱり歌しかありませんでした。それで、歌や司会をはじめ、学生時代の経験を生かした通訳の仕事で頑張って行こうって決意しました。もちろん、周りの皆さんの応援があったから頑張ることが出来たんだとすごく感謝しています。

 実は昨年、国連のUNHCRの協会から、正式に肩書きをいただきました。自分ができる額を細々と寄付するところから始まりました。でも、このまま細々とやっていても、永遠にみんなUNHCRとか知らないんだろうなって思ったので、自分のライブでチャリティみたいな形でやってみたいなって思ったんです。それで協会にアポイントをとって手続きをして、イベントが実現しました。そこからの繋がりで、色々な場面で歌わせていただいたり、司会させていただくようになりました。あの映画との出会いのおかげで、今の私はこれだけ元気に歌わしてもらったり、語らしてもらえたりしています。だから、私は毎日感謝して生きています。それをこのような形で語ったり歌ったりすることで、みんなに少しでもその輪が広がってくれたらって思います。もちろん、自分の職業はシンガーソングライターですから、いっぱいそういうメッセージをこめた曲や歌詞を作って、それを基盤に、これからも音楽を通して活動していきたいですね。

掲載:2010年7月

松田陽子(まつだ ようこ)氏 プロフィール

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大阪生まれ。関西外国語大学卒業後、1996年渡米。ニューヨークブロードウェイのマリオットホテルにて週末レギュラー出演。現在、シンガーソングライ ター・MC・通訳など幅広い分野で活躍中。 2007年よりボランティア団体『self』の代表を務める。国連UNHCR協会 協力委員(2009年度)

松田陽子公式ウェブサイト

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