亀田 真二

  • USHIO AMERICA, INC
  • President & CEO
  • 亀田 真二
  • 1989年 外国語学部 英米語学科 卒業
亀田 真二

ディベートにおける論法や議論の構築の仕方は、今でも日々の仕事に活かされています。

 入学した当初は、生意気に感じられるかも知れませんが、外国語大学の授業はすべて英語で行われるものとイメージしていたこともあり、少し授業に物足りなさを感じたこともありました。そこで、その物足りなさを補うために入部したのがESSとの出会いでした。

 ESSで最も影響を受けたのは、ディベートです。英語道で有名な松本道弘先生の書物は、今も変わらず私の本棚に鎮座しているくらいですから。知的口喧嘩と言われるディベートにおける論法や議論の構築の仕方などは、今でも日々の仕事に活かされていると感じていますし、ディスカッションを行う上での基本的な姿勢やルール、事前に準備する大切さは、言うまでも無く社会に出てからとても役立ちました。当時お世話になった先輩方には、本当に感謝しています。

学校で学んだ英会話は通じない

 また、学生時代は、念願叶い、ケンタッキー州にあるWestern Kentucky Universityに1年間留学もしました。留学当時の1988年と言えば、ちょうどバブル真っ盛りの頃で、『Japan As NO.1』という本がヒットし、ソニーの盛田さんが書かれた『Made In Japan』が出版された頃です。電子メールやインターネット、ましてやLINEといったツールも無い時代ですから、日本とはエアーメールでのやり取りが中心。現在とは隔世の感があります。それだけに、一度足を踏み入れてみると日本語は完全に遮断され、100%英語漬けの日々を送ることができました。当時の貴重な経験の一つとして“学校で学んだ英会話は通じない”という事を痛感しました。

 最初の半期は、授業で先生の話す英語が十分に聞き取れず、前列の席を確保してカセットテープに録音し、寮に戻ってから何度も聞いたことを覚えています。教室と寮と図書館の3地点をひたすら往復するだけで、いわゆる楽しそうなアメリカのキャンパスライフから思い描く風景とは、大きくかけ離れた悲壮感溢れる半年でした。ようやく少し慣れた頃、ESSで学んだディベートのクラスとSpeechのクラスを履修しましたが、取ってからすぐに後悔しました。ESLで一緒に学んだ他の外国人からも無謀だと言われるほどのレベルで、とても外国人が合格点をもらえるレベルではないと分かったからです。

 ディベートのクラスでは、毎回ディベートゲームが行われました。例えば “陪審員制は廃止されるべき”という命題に対し、賛成側と反対側とに分かれて議論し合い、先生が勝ち負けを判断するというゲーム形式で授業が進みます。評価もこの結果で決まるので、毎週1テーマに対して賛成、反対のいずれでも戦えるように準備をしなければなりません。予め決まっているのはパートナーだけ。インターネットがない時代ですから、図書館でマイクロフィッシュリーダーという機械を利用してエビデンスを探すという作業に明け暮れたことを覚えています。試練も多かったですが、そのゲームでうまくスピーチができ、思い通りに進んだ時の達成感は格別でした。同時に「何事も十分に準備すれば何とかなる、多いにチャレンジすべし」という考えが芽生えた瞬間でもありました。

何事も十分に準備すれば何とかなる、多いにチャレンジすべし

 卒業後、ウシオ電機を希望したのは、中堅サイズの企業規模ながら海外に多くの支店や拠点を持っており、自分の英語力が役に立つだろうと安易に考えたのがきっかけでした。ところが、いざ採用が決まってみると、希望の海外営業などには配属されず、国内営業に配属されることになりました。当時の客先の多くは、大手家電メーカー、産業機器メーカーの開発や研究に携わる技術者がほとんど。電気や物理、化学といった分野は高校時代で決別をしたはずでしたが、まさか、ここに来て再度対峙するときが来るとは思ってもみませんでした。英語に接する機会もほとんど無く、悩んだ挙句、会社を辞めようと考えた事も何度かありました。しかし、「何とかなる、大いにチャレンジすべし」という精神で諦めないようにしました。

 結果、多くの上司や先輩方の助けもあり、気が付くといつの間にか多くの海外出張をこなし、多くの英語に触れる機会が出てきていました。そして、その時に気づきました。要は簡単な話で、会社にとって単なる英語屋は要らないのです(もちろん、同時通訳レベルになると話は別です)。仕事ができることが常に最優先にあり、その上で英語ができるかどうか、ということが初めて意味を為すのです。英語が多少できるからといっても、それだけではアピールになりません。例えば社内を見渡すと、日本以外の国籍の人がいたり、同じ日本人でも海外の大学を卒業した人がいるかも知れません。そのような環境では、英語が話せることはもちろん良いことだと思いますし、英語を話せない人に比べると少しは有利なのかも知れませんが、英語に固執するがあまり、英語しかできない人間にはならないでいただきたいのです。入社当初の私は、そういう意味では大変甘い考えで仕事に臨んでいた、ということになるのかも知れません。しかし、「何とかなる、大いにチャレンジすべし」という気持ちでここまで来ましたし、この精神はこれからも変わることはありません。ディベートのときに学んだチャレンジ精神があれば、多少の困難な状況でも何とかついていける、要は如何に準備を行うかにかかっていると考えています。

サザンカリフォルニアの太陽の下で

 ウシオアメリカは、ウシオ電機の100%子会社で、アメリカ市場におけるウシオ電機製品の販売などの商社的な役割を持つ一方、北米に製造拠点を持つ製造会社でもあります。2013年に配属、そして、昨年2014年の10月よりウシオアメリカの社長に就任致しました。200名の社員を持つ会社のトップに着任するに際しては、其の重責にプレッシャーを感じつつも必ず成果を出したいという思いを強くしています。カリフォルニア州ロサンゼルス国際空港から車で1時間程度南下した地点、サイプレス市に位置するウシオアメリカ。サザンカリフォルニアの太陽の下、日々忙しく、そして、楽しく過ごしています。
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どこまでならやり通せるか?自ら学び続けることができるか?

 これから社会に出られる外大生の皆さんも、恐らく「どんな仕事が自分にあっているんだろう?」「どんな分野、職種が自分に向いているんだろう?」と、それぞれに悩み、考えていらっしゃると思います。私自身の経験からお伝えできることは、究極的に自分に向いている仕事というのは、最初はなかなかわからないものなんじゃないか、ということです。向いていないと思っていても、継続して努力することで楽しさが分かってくるということの方が圧倒的に多いと思います。だから、最初から適職を探し出すというよりも、まずは、体験して何年か頑張り通すというのが正しい姿だと思います。ここで言う「何年か」という時間の中で「具体的に何ができるか?」がとても肝心だと思います。困難な場面にある時、如何にブレークスルーを得るかですが、相談できる仲間やメンターのような方が近くにいる人は言うまでもありませんが、そのような方が居ない場合でも、ある時は、書物に答えを求めたり、また、ある時はネットで検索して様々な可能性を求めることも良いと思います。その際に試されるのが、人の言葉を読み解く力であり、語彙力であり、理解できる幅、教養、過去の経験、そして何よりもどこまでならやり通せるか?という自分に対する自信だと思います。これらの経験をどこまで学生時代に得られるか?また就職後も自ら学び続けることができるか?にかかっていると確信しています。

 私自身もまだまだ修行が足りませんので、自分自身に言い聞かせるつもりで書いていますが、チャレンジする心は、日ごろの練習次第だと思います。また、同時に周りの方に好かれる、という人間的な魅力、配慮、言葉遣い、礼儀も申し上げるまでもありませんね。関西外大の卒業生の1人として、どうか皆さんが信じた道で成功されますことを願っています。

掲載:2015年3月