野々山 浩代

  • グローバル・ビジネス・アドバイザー
  • 野々山 浩代
  • 1981年 外国語学部 英米語学科 卒業
野々山 浩代

夢中になったESSでの経験

関西外国語大学に入学後、ESSに入部しました。入部理由をはっきりとは覚えていませんが、恐らく先輩方の気さくな雰囲気に惹かれたのだと思います。1回生のとき、学祭のスピーチコンテストに出場しましたが、最終的にIGC(通訳ガイドクラブ)の3回生に負け、惜しくも準優勝という結果に終わりました。しかし、そのこともあってか会話長に任命され、スピーチなどの指導にも励みました。大学の授業はほどほどでしたが、ESSでの活動は献身的に取り組んだと思います。交換留学に行くまではESS一筋でしたね。今考えればESSは小さな世界でしたが、その経験が社会人になってから多方面で実を結んでいると感じています。

ESSの合宿は本当に楽しかったです。合宿場に向かうバスに乗ると同時に、日本語は完全に禁止されます。身振り手振りで行う英語での会話は、一生懸命であってもかなりジャパングリッシュだったと思います。先輩から“Where is the bathroom?”と尋ねられたのでトイレに案内したら、“There is no bath tub here!”と怒られました。アメリカの家庭ではトイレのことを“bathroom”と呼ぶのでトイレに案内したのですが、先輩は「お風呂場」のことを言いたかったみたいなのです。こんな滑稽な場面が多々ありました(笑)。

留学先の大学で出会った多様な学生たち

私は大学で日本語の教授になることを目的に、アメリカに留学しました。留学先のコルビー大学では、アメリカ人はもちろんのこと、多くの外国人学生と交流することができました。その中には、台湾一の造船会社の御曹司がいたり、バングラディッシュの富裕層出身なのに常にボロ服でマオキャップ(毛沢東が被っていた帽子)を被っていた男の子がいたり、またディスコの踊りがプロ級の黒人の男の子がいたり、大学の規模は小さくても環境は国連のようでした。そんなコルビーでの一番の収穫は、生涯の親友に出会うことができたことです。コルビーはメイン州のウォータービル市にあり、冬はキャンパス内の寮から教室に行くまでに鼻が凍ってしまうようなことがよくありました。メイン州で育った親友は寒さに強く、冬でも私をよく散歩に誘ってくれて、歩きながら色々な話をしました。帰国後も連絡をとり続け、その時々に起こった幸・不幸の出来事の度にお互いを励まし合い、助け合いました。コルビーで始まった友情は40年後の今でも健在です。

やむを得ず就いた法律の仕事が天職に

大学卒業後、イリノイ大学の大学院に進むため、再び渡米しました。2年後、イリノイ大学で修士号を取得。その後、同大学とその附属高校で日本語を教えていました。その期間に結婚し三つ子を出産。産後3ヶ月で、私たち家族は夫の仕事の関係でロサンゼルスに引っ越しました。私はロス郊外の大学で日本語を教えることになっていたのですが、まもなく夫と離婚したため、経済的な理由から別の職業を選ばざるを得ない状況になりました。そんなとき、ロスのダウンタウンにある大手の法律事務所が私を雇ってくれました。当時、法律の知識が全くなかったにもかかわらずです。それは日本がまだバブル経済で、日本語と英語が話せる女性がバイリンギャルと呼ばれ重宝された時代だったからかもしれません。私の職務は、日本のクライアントの窓口となるジャパン・デスク担当兼パラリーガルでした。パラリーガルとは、弁護士を補助するアシスタントのことです。私は現場でネイティブと同等に英語を使いこなすために法律用語を猛勉強し、手当たり次第参考書に目を通しました。努力の甲斐あって、3つ目の弁護士事務所に移籍する頃には、ネイティブの上司から英語の書面の添削を頼まれるまでになりました。弁護士事務所には在ロサンゼルス日本国総領事館からよく連絡がありました。ロスで起こった殺人未遂事件や大企業の社長が起こしたセクハラ事件、暴力団員による恐喝事件など、今考えれば恐ろしい案件が次々と舞い込んできたのです。ほとんどの事件はロスの地検に取り扱ってもらっていましたが、恨みを買って犯人に尾行されていないかと不安な日々を過ごしたこともありました。とはいえ、毎日がチャレンジであるこの仕事は、どれほど忙しくてもつらいと感じたことはありませんでした。

これまでに培った知識・スキル・人間関係すべてを活かして貢献したい

24年間続けた弁護士事務所の仕事から離れ、日本とアメリカの親善を目的とするNPO、米日カウンシル(U.S.-Japan Council)に入社。日本トップ企業の社長や政界の代表の講演イベントを開催していました。その中でも一番印象的だったのは、今は亡き安倍元首相です。ロスのイベントで奥様と一緒にお会いした際に優しく労いのお言葉をかけてくださいました。その後は、法律事務所時代にお手伝いした顧客のビジネス・コンサルタントとして独立。現在に至るまで、グローバル・ビジネス・アドバイザーとして日本企業の海外進出を多方面から支援し、世界を飛び回る日々を送っています。独立したばかりのころ、顧客が所有するビジネスジェットに乗せてもらう機会がありました。そのご縁があって今ではその顧客のビジネスジェット部門のグローバル・アドバイザーとして海外で行われる展示会や商談などに同行しています。長年培ってきたあらゆる知識やスキルを最大限に活かせるこの仕事は、とてもやり甲斐があります。これからも私のアドバイスやサポートがグローバル企業の発展に少しでも役立ってもらえたら本当に嬉しいです。仕事を通して育んだ人間関係や友情を大切に、できる限り長くこの仕事を続けたいですね。
同僚と靖国神社で撮った写真
安倍元首相と奥様、私のパートナーのヘンリーと私の4人の写真
ジェットの前で撮った写真

生涯忘れられないESS同窓生が集った懇親会

2022年7月29日から30日、ESSのOB/OG会であるEFEL会(Ever Lasting Friendship through English Language)アメリカ支部の懇親会がロサンゼルスで開催されました。日本の奈良、ニューヨーク、シカゴ、オレゴンから先輩や後輩を含め10人ほどが参加。当時アメリカではコロナ感染者数が再び急増し、フライトのキャンセルや遅れが相次いでいましたが、コロナのホーム・テストの結果、全員が陰性。フライトの遅れもなく、無事に開始することができました。対面で初めてお会いする方や40数年ぶりに再会できた方々と、昔話に花を咲かせ、懐かしさで胸がいっぱいに。その後のカラオケでは、皆で懐かしい曲を歌い踊り、人生で一番忘れられない思い出ができました。その翌日は我が家でバーベキューをしました。ESS時代のことはもちろん、現在に至るキャリアの話などじっくりと語り合うことができたこの2日間は、私にとってかけがえのない貴重な経験になりました。この懇親会で温めた友情は、人生を全うしていく上で大きな糧となるはずです。
EFEL会アメリカ支部の懇親会の写真

法律業界をめざす方へ

訴訟社会と言われるアメリカで弁護士はとても重要な役割を果たします。その弁護士を支えるパラリーガルは弁護士と顧客の接点であり、ベテランになれば弁護士と一緒に顧客の商談に参加したり、契約書のドラフトを草稿するなど、かなり高度なリーガル・スキルを必要とします。私の場合は日本人の顧客が相手であったため、通訳や翻訳の仕事も多々ありました。ただ今後は、AI翻訳ソフトの普及により、バイリンガルのパラリーガルの仕事は見直されていくでしょう。弁護士は、ざっと会社法弁護士と訴訟弁護士と2つに分かれ、さらにその2つともが様々な専門分野に枝分かれします。既に英語力のみでは勝負できない職種となっているため、働きたい専門分野についてまで踏み込んで考えておくと良いと思います。例えば、飛行機に興味のある方は航空法、先端技術に興味のある方は特許法など、学生の今からその分野の知識をできる限り習得することをお勧めします。今までの法律事務所のマーケティング(営業)は、会社訪問や一般セミナーを通して行われてきましたが、Zoom会議やバーチャル・セミナーなどが普及してきています。こうした先端技術を活かし、より効率よくプレゼンできるスキルはどの分野でも重宝されるので、積極的に新しい情報に触れて身につけていってくださいね。

掲載:2022年9月