床呂 沙紀

  • 京セラ株式会社
  • 床呂 沙紀
  • 2017年 国際言語学部 国際コミュニケーション学科 卒業
床呂 沙紀

「走ること」と「外国語を学ぶこと」の両立

小学1年生の頃から走ることが大好き、「将来の夢はマラソン選手」そう言い続けて高校も県内の陸上の強豪校に進みました。進学先は自宅からは遠く、通学できなかったため、父と駅近くに家を借りて二人暮らしをしました。母は弟と妹、祖父母の世話があるため2、3日に一度車で片道1時間の道のりを沢山のおかずを作って届けてくれました。私の夢のために家族に全面的に支えられた3年間でしたが、思うような結果が出ず、「もう走れない」と一度だけ母に弱音を吐いたことがありました。母は「神様に試されているんやから」と言って励ましてくれ、私は高校3年間最後まで走り続けることができました。高校卒業後の進路は、もう陸上はやめて苦労をかけた家族に恩返しのつもりで就職をするつもりでいました。
そんな時、高校の陸上部監督から「関西外国語大学が女子駅伝部の1期生を募集している」と教えてもらい、もともと英語は好きでしたので、オープンキャンパスに参加してみました。山本泰明監督にお会いし話をする中で「英語と陸上競技、両方がんばりたい」と心が躍り進学を決めました。一期生ということで、4年間女子駅伝部の主将を任せていただいたことは私にとって責任と自主性を養う大きな機会になりました。そして、なにより山本監督は「走る楽しさの原点」を思い出させて下さる方でした。厳しい練習のなかにもそれを上回る喜びを感じることができ、地元のラジオに出演したり市民駅伝に参加するなど、関西外大ならではのやり方で地域の皆様に応援していただける駅伝部を作って下さいました。目標だった全日本大学女子駅伝や富士山女子駅伝にも共に頑張ってきた同期、後輩たちのおかげで出場することができました。
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一方、私にとってネイティブ教員によるオールイングリッシュの授業やセミナーハウスに住む留学生との生活は戸惑うことばかりでした。自分の能力の低さに落ち込んだり悩むこともありましたが支え合える仲間がいてくれたことで、中学と高校の教員免許を取得することができました。オーストラリア、イギリス、中国など様々な国籍の友達と積極的に交流することで視野を広げ、世界を身近に感じることができたこと、のちに実業団の京セラでチームとして初めて迎えたケニア人選手とコミュニケーションをとることができたのも関西外大で学べたからだと思います。

実業団選手として

大学時代、山本監督の勧めで練習の一環として1ヶ月の間でマラソン3大会に出場したり、大阪国際女子マラソンのネクストヒロインに選んでいただいたり、念願のマラソンに挑戦する機会を数多く作っていただきました。それがきっかけで京セラの方に声をかけていただき実業団選手として歩むことを決意しました。夢に見た実業団選手としての生活は走ることが仕事という、大学生の競技とは比べものにならない練習や体調管理…相次ぐ故障や不調に悩み、もうダメかもしれないと何度も心が折れそうになりましたが、稲盛和夫名誉会長の「もうダメだという時が仕事のはじまり」というフィロソフィを思いだし、今の自分にできる事を続けました。結果、2年目にはマラソンを数多く走らせてもらうことができ、今となっては夢で終わってしまいましたが、東京オリンピック日本代表の選考レースとなったさいたま国際マラソンで海外選手と肩を並べて走り自己ベストを更新できたことはいい経験でした。もちろん、京セラの社員の方々の応援が力になったのは言うまでもありません。怪我で、思うように結果が出せない私に温かい言葉で日々励ましてくれました。
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第二の人生のスタート

陸上部を引退後も、引き続き京セラで働かせていただくことになりました。陸上しか取り柄のない私にとって本当に有難いことです。配属された名古屋営業所では総務課で営業をサポートするための事務を担当して4月で2年になります。最初の1年は全く異なる環境に戸惑い、初めての経験に挫折しそうになることが何度もありました。そのたびに上司や先輩社員に助けていただき、競技でうまくいかない時同様「もうダメだと思った時が仕事のはじまり」という言葉を思い出して、自分にできることを探し続けました。現在は情報機器を扱ううえで必要な基礎知識が試されるITパスポートの資格取得試験に挑戦中です。2年が経とうとしている今、少しずつ頼ってもらえることは増えましたが、社会人としてはまだまだ半人前です。これまで多くの人に支えていただいた感謝の気持ちを、社員の皆様をサポートすることで表していきたいと思っています。
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掲載:2024年3月